昭和49年05月10日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子から難しゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、吾ながら喜んで、和賀心を祀れ。日は年月の始めじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 お道の信心は何処までも人情から離れる。そして神情一筋に信心を進めて行くと云う事だと思うんです。「信心はみやすいもの」と仰せられる信心は、神情でなす信心になって来る所に、信心はみやすい事になって来るです。だから難しいのは、その人情を取る事が大変難しいんです。神情になったら、信心はみやすいもの。人情を出すから信心が大変難しゅうなって来る。
 段々そこの所の言わば天地の事訳が解り、言うなら天地の道理に法り(のっとり)基づいた所の行き方、または信心をさして頂くと云う事が、言わば十年も経ったら、金光様の御信心は、そこが判って来る。今までの難儀・苦労は、あれは人情であったからだと判って来る。神情だ、神情一筋に進むんだと。なら金光様の御信心を、仏教で慈悲を説き、キリスト教辺りは愛を説く訳です。金光教では真だとか、真心だとかと云う風に言われて来ておりますけれども、実は私はそのう神心だと思うんです。
 それを今日の御理解で頂きますと、神心と云う事は神情だと云う事。神の情、神の思いと云う事。ここにはね、人情と神情がはっきり区別されております。だからその神情になる事を、金光様の御信心では一生懸命求める。例えば仏教では慈悲心を愈々。キリスト教は言わば愛の心を育てて行くであろうと思いますがです。金光教ではその神情をです。神情一筋に神の情、神の思いを一筋に自分の物にして行く。だからこそやはり「和賀心が神に向かうのを信心と云うのじゃ」と仰るのです。
 和賀心が神に近付いて行く。段々人情が抜けて来る。そして神情一筋に進んで行く。だから場合によってはです。「人非人」と言われる様な事があるかも知れませんよね。人非人と云うのは、大変な悪口ですけれども、私は神様へ向かって行く過程だと思うです。人にあらずと云う事「あれはもう、人間の面を被っておるだけでもう人間じゃない」と云うのとは違うんです。けれどもその過程においてはです。それが信心の無い者から見ると、言うなら、人非人に見えるかも知れませんね。
けれども実際は人ではない、神に向かって進んでいる。その過程なんです。だから「訳の分からん奴じゃある」とか、又は冷淡と云う風に見える場合もあるのです。私共の信心には、どうも人情が入り過ぎて、その人情が入り過ぎる為に、信心が難しゅうなっておると云う場合が大変ある様です。先日から一人息子さんがようやく学校を出て就職した。所が、もう就職の言わば現場で、上役の人がもう事々に辛く当たる「もう僕は今日は愈々堪忍袋の緒が切れた」と言うて帰って来る。 
 話を聞くと例えば本当に親が「泣き出したいごたるね」と言うて、昨日なんか申しました事です。もうその言う事、する事、もうその仕打ちのね、その仕打ちがもう本当に情けない仕打ちだ。ああいう時には、人情を使うて本当に自分の苦労は厭わない(いとわない)けれども、子供が苦労しておるのは見ておられん。是が人情なんです。だから神情でです、それを見るとです「やあ子供がね、大変な修行をさせて頂いておる。
 神様が御育て下さりよる。今までは一人息子でぼんぼんで育てておったから、神様がそれを上役を使うてこう云う働きが頂けておる」とこの思い方が神情です。所が人情で以てすると、私がお取り次させて頂いておっても、私の方が泣きだそうごたる感じなんです。その言うておる事、しておる事の仕打ちが。いえ、その言い様が。だから、こう云う時に一つ、人情を出さずにね、如何にも人情を出すのは良いごとあるけれども、決して人情では助からん。そう云う場合、神情を以てするとです。
 例えばその子供にある意味では同情しながら聞き、または励まし色々するでしょう。けれども心の中では「はあ、此の様にして本当の御育てを頂いておる」と言うて、御礼が言えれる様な心の状態が神情です。ですからね、神様にはある意味においてです。地も涙も無いと云う時があるです。泣き面に蜂と言った様な、それこそ「神様は人情もその血の涙も無いのでありなさろうか」と思う位にあるです。それが神情です。私は今日は此処ん所を思わせて頂いてですね。
 はあ成程信心はみやすいものと云う事は神情になり、段々なり得て行く所にみやすさ、みやすいと云う事になって来る。信心は。今朝から御神飯がそれこそ私が御祈念に出る前にチャッと、その御神飯が出ておるのです。是はもう何時も。所が今日は完全に御神飯が遅れた。ようやく五時の御祈念にお供えすると言った様な事であった。以前にもそう云う事何回かあった。その都度都度に私は、神様に言うならば御飯を遅らしたんだから、私が御飯を先に頂いては相すまんと思うて、その日は必ず断食した。
 今日も私は断食さして頂こうと思うて神様に御願いさせて頂いたら、今の事を頂いたんです。「それが人情じゃ」とこう仰る。しかしねこの道徳的なと云うか、支那あたりの思想から来た考え方と云うのは、実に人間を中心にした事ばっかりです。それは人間だから人間を中心にするのですけれども、信心と云うのは神様の心を中心にして行く行き方こそが、金光教であり、信心なのですよ。それが金光教の素晴らしい所だと私は思うです。神様を中心にした生き方なんです。
 例えば、下役の者が不調法をする。取り返しの付かない事になった、そうすると上役はその為に責任を取って自分が腹を切ると言った様な生き方がいわゆる人間中心の考え方です。こんな馬鹿な話があるもんですかね、私は今日は改めてそれを思うです。子供の御無礼は親の御無礼、そんなな事はないです。子供の御無礼は子供の御無礼です。下役が不調法は下役の不調法です、決して上役の不調法じゃないです。そう云う責任を取ったりする様な考え方が難しいのです。
 だから今日なんか御神飯を遅らしたと云う事は大変な御無礼です。ですからその御神飯の御用に当っておるその者が、今後改まって行ったらそれでいいのです。師匠の私がその為に、まあ、お詫び位してやります、けどその為に「私が責任を取って、私が断食する事はいらん」て云う意味の事を、今日お知らせ頂いたんです。ははあしてみると、信心は見易うなって来るなあ、ある意味からですよ、是は日頃こう聞いて頂いておっのとは全然観点が違った説き方ですね。
 今日の御理解は「信心はもやすいものじゃ」とはそう云う意味において。また成程「三年五年の信心ではまだ」なるほど三年五年でそんなに簡単に神情になれるはずはない。と云う意味なんです。神情に向かっておるその過程、なるほど十年その事に本気で取り組ませて頂いたら、人情一筋と云うのではなくて、人情を抜きのした神情一筋の生き方がだんだん出来る様になる。その神情その心が神心、その神心が、「われながら和賀心を祀れ」と云う事なんです。
 今日は私はそう云う意味でです。なるほど御神飯を遅らしたその責任者は、御無礼だけれども、その失敗をしてくれたおかげで私は新たな世界が開けたって云う感じがするんです。だから、反対にお礼を言いたいような感じがするです。言うならば、神様が失敗させなさったと云う事になりゃせんでしょうか。なら皆さんでもそうです。はあ今日御神飯が遅れなさったおかげで、今日はこう云う有り難い御理解を頂いたと云う事になるんじゃないでしょうか。そりけんちゅうならその遅れたのがです。
 私のおかげで先生もおかげ、皆んなもおかげ頂かしよったじゃいかんのですから、本人としては、またからこう云う不調法がある様な事は致しませんと、詫びを入れれば「詫びれば許してやりたいのが親心」と云う程しに、金光様の御信心は見易いです「詫びれば許してやりたいのが親心」金光様の信心は大きい。その事を私は改めてお礼を申させて頂いきおりましたら、もうずうっとそのもう何十ちてからね、何ちゅうんですかねまあ共同便所とでも申しましょうか、お便所が幾列にもある所を頂いたんです。
 お便所と云う事は、言いうならば御結界と云うとこ、人のね様々な難儀心配、いわゆる小便大便を出す所。そう云う例えばおかげを頂く為にはそう云うみやすい信心、言うならば大きな信心をさしてもらわなければ出来ん。ははあ是からこう云う生き方で、私の信心もまた少し変わって来る。今までは子供の不調法は親の不調法としてから、子供が悪い事をすると、また親が何時も平身低頭しとらんなん。それは子供が沢山五人も十人もおるならば、もうずうっとお詫びしとらんならん。
 かにもそれは謙虚で、いかにも良かろうごとあるけれども、良い事ない成程子供が改まって行く、子供がお詫びせねばならん事やら、改まらなん事に気付かして頂く事を願う事は、親として願わにゃならん。けれどもその為に親が、何時もお詫びしとらんならんちゅう様な事はない。本当に例えば子供が言うならいじめられて帰って来た。そん時に親まで一緒に腹が立つ親が情けないと思う。
 親がその子供が難儀を感じておる難儀を、自分が分けても自分が代わって難儀を、ならば難儀を親がしたいと云う様な気がするのが、是は人情だと。そう云う時にね一つそう云う人情を使わんで済むだけのね、信心を愈々頂いて行かなきゃいけませんね。いやその事にむしろお礼が言えれる様な、私は神情一筋に進んで行く稽古をして行かなければならない。そう云う所に、焦点を置いての信心が、成程十年も続いたら、愈々「和賀心が祭れる」様なおかげになって来ると思うんですね。
   どうぞ。